幸福に生きていけることを目指して。 今現在までの過去の経歴

ゆきじゃの過去の経歴


はじめに

はじめましてゆきじゃ(@yukizyajbcc)という者です。

当ブログをお越しいただきありがとうございます😊

この記事では、僕の今までの過去の経歴について紹介しています。 僕の顔となる部分の記事でもあり、また伝えたいことがありすぎて14000文字くらいとかなりあります(笑) サラっと流し読みでいいので気軽に読んでいただければ幸いでございます。

サラっと読んでいくうちに人によってはもちろん途中で飽きてしまう人も必ず出てくると思うので、そうなってきた場合はもちろん読むのをやめていただいて構いません(笑)

twitterでは言えない本当の事も書いているし、僕の生々しい過去の実体験も書いているので、もしかしたら人によっては悲く感じてしまうかもしれません^^;

まずは簡単な経歴について

現在のリアルアイコン

1993年に東北地方に生まれ、辺り一面田んぼが広がる地域で育ちました。
生まれた後しばらくは父と母からの愛情を注がれながら僕は育っていきました。

いきなり悲しいこと書きますが、今までの過去約20年間を一言で言い表しますと、不幸の連続だったといえます。

生まれてから小学校入学するまでは特に何事も大きな問題はありませんでしたが、小学生時代に周りからいじめられてしまったことが全ての発端でしたね。

いじめられてしまったことで常にネガティブ思考になってしまい、それが原因で過去に人生を狂わされてしまいました。
それと同時に家庭での問題もいくつか起こってしまいました。

それぞれまとめますと以下のような感じです。

・学生時代 ➡ 泣き虫でネガティブ思考だったため、いじめられる日々。
・建設業時代 ➡ 戦力になれず4か月目で顔面を殴られ退職。
・短大時代 ➡ 情報系企業を目指すも失敗。
・製造業時代 ➡ 戦力になっていたものの、上司のパワハラに耐えられず退職。
・今現在 ➡ アルバイトしながら今後の人生を模索中。


「短大時代も学生時代にふくまれんじゃないの?」と読者の中で思われると思いますが、この記事ではあえて小学時代から高校時代を学生時代として分けています。

特に学生時代と建設業時代はひどかったです。建設業在籍時代は酒に酔った年配に顔面を殴られ、ネガティブな感情がピークに達してしまって首を吊ろうとまでしましたからね。

短大時代は情報系企業で活躍したいと思って入学しましたが、家庭を支えるために生活費も稼がなければならないことでアルバイトを多く入れ、それが仇となって情報系企業を断念、担任の先生に勧められた製造系企業へ就職しました。

この頃は、再就職するにはもう一度学校に通ってからでないと無理だという風にしか視野が見えていませんでした。

製造系企業では今までの失敗から学んだことで戦力になることができ、上司や周りの先輩方からも信頼されるようになりました。

しかし、部署が移ってから上司の僕への辺りが強すぎたのが原因で時々会社を休むようになり、次第に限界を迎えて退職せざる終えませんでした。
それと同時に周りが見えていたため、この機会に退職しようとした思いもありました。

現在はアルバイトをしながらブログを執筆、それと同時に今後の人生を模索しております。

ただ、製造業時代に得た給料で自己投資をし続けたおかげで、周りが見えるようになり、得たことも大きいです。

その他常人では見られないような残酷な現実を動画で見てきたのはもちろんの事、ニュースや実際僕の目でも悲しく苦しそうな人たちを何度も見てきました。

僕自身自分で生まれ変わることができたことから、他人に対して有益なことを発信していきたいという思いがわいてきたこと、そして少しでも苦しんでいる人の助けになりたいとの思いから当ブログを開設するにいたりました。

ここからは僕の経歴について詳細に紹介しています。

~学生時代~ ここから僕の不幸が始まってしまう。

木が見える教室

ここでは、小学生時代~高校生時代の出来事を一気に振り返ります。

この頃が一番不幸を経験した時代でもあり、僕の人生が狂ってしまった一番の発端要因でもあります。

人生を狂わされてしまったことで洗脳されてしまい、そして他人から幾度も利用されてきました。
利用されたことで僕自身も何もかも物事がうまくいきませんでした。

僕だって本当は、もっとたくさんの友人と仲良くしたかったし、一緒に遊びたかったし、仲間外れにされるのも嫌でした。

この学生時代の頃に僕は何度も「死にたい。」などといった言葉を発したことも覚えており、現在まで生きることができたのも本当に奇跡だということも感じております。

でも逆に、いじめや嫌な事を経験してきたからこそ、他人の気持ちや思いやる心も培われることができたとも思っております。

ここからは小学生時代から高校生時代までの出来事をわかっている範囲で詳細に書いていきます。

~小学生時代~ 泣き虫でいじめられっ子だった。

心を閉ざしてしまった女

小学生の頃は、一言で言うならば泣き虫な子供でした。

軽く頭を叩かれるだけでもめそめそと。
「アホじゃないの!」と少しの罵声をかけられただけでもめそめそと。
本当に何か少しのことがあってもすぐに涙を流してしまう子供でした。

そのため、僕が泣き虫だということを一人のいじめる子供によってウワサとして周りに広がってしまい、そこから徐々にいじめる子供たちの格好の的となりました。

授業中、僕が真面目に聞いているだけでも後ろからちょっかいを出されたり、
いじめる子供たちから遊びを断ろうとしても、恐怖心から断ることが出来ず、
ゲームの対戦では3対1で僕が一人側に強制的にされてボコボコにした後、
しまいには「帰れ! 帰れ!」と言われて涙を流しながら帰ったり、
他図書館へ行ったときなど、いじめる子供が僕を見かけるとひそひそとなんかしゃべったりと、
何かしらの行動や態度をとるごとに色々と嫌がらせをされます。

それらは小学生時代に幾度ともなく繰り返され、
今まで楽観的だった僕は、徐々に悲観的になっていきました。

それらは今後の僕の人生を狂わせるのに十分な要因でした。
そしてネガティブな感情になってしまった僕の出来上がりです。

それまではテストで常に90点以上をキープしていたのですが、いじめられるようになってからは50点を下回ってしまうことが多くなり、しまいには小テストで0点を取ってしまうこともありました。

当然両親からは猛烈に怒られてしまった経験は、今でも覚えています。
「なんで0点なんか取るんだよ! ふざけるんじゃない!」という風にね。

それと同時にこの頃は、水泳と卓球をやっておりました。

卓球は、友人が始めたということから僕も乗る形で始め、
水泳は、プールでおぼれるしぐさをして笑われて悔しい思いをしたためから始めました。

卓球では同い年からビンタをくらったりと学校と同じくいじめられてしまいましたが、
水泳では同じ学校の人が幸いいなかったので、いじめられることはありませんでした。

中学生になると僕の学生時代はさらに絶望的になっていきます。

~中学生時代~ いじめのエスカレート&後輩から舐められる

周りから指を突き付けられる女

中学生になると、他の小学校の生徒とも一緒になります。
僕が中学生になっても一向にいじめは収まることはありませんでした。
むしろ僕に更なる悲劇が襲い掛かることになります。

悲劇の始まりは中学1年生の4月中旬の事でした。
僕と同じ学校出身で、小学生のころから僕をいじめた一人の人間が、逆に僕からいじめられたという嘘の情報を流したことがきっかけで他校出身の人にも広まってしまい、その人たちもさらに僕をいじめるようになります。
「あの人から俺は今まで嫌なことを幾度となくされたんだ! だからあの人を仕返してやってくれ!」
という、まったくの嘘の言葉を。

その言葉は、背の高い一人のいじめる人間によって発した言葉であることを現在でも覚えています。
もちろん「あの人」とは僕のことです。

そして、小学生の頃から悲観的だった僕はそれに加えて、
対人恐怖症、コミュニケーションの欠如、さらにはパニック障害といった、
いじめ後遺症と呼ばれる障害を患うようになってしまいました。

小学生の頃から親しかった友人もいじめる人間を止めようとしましたが、
いじめられる被害を恐れていたせいか、僕のいじめを止めることができませんでした。

こうした悲劇は、クラスが変わる中学2年生になるまで続きました。

中学2年生になると、僕をいじめた主犯格とは別のクラスになったため、僕に対するいじめはほぼ激減しました。
しかしクラスの一部の人間からは、僕が何も気持ち悪いことをしていないにも関わらず、僕から遠ざけようとする人間はいました。
それと同時に、今度は別の問題が起こりました。

それは、後輩からも舐められるということです。

同じ部活に所属している後輩からちょっかいを出されたり、
いきなり「死ね!」などといった罵声を浴びせられたりもしました。

なぜ後輩からも舐められるようになったのかは詳細にはわかりませんが、
僕が何事に対してもびくびく、そしておどおどしていたために後輩の目からは、
「あの先輩はなにをやってもいいんだな!」というふうに感じ取っていたのかもしれません。

この頃は僕もはっきり言ってとても悔しかったです。まさか後輩から舐められてしまうとは思わなかったし。

また、この頃は動物系のキャラクターの物まねをよくやっていた時期でもありました。
自分の中では自分の身を守るための防衛手段としてクセでやっていたのですが、
その行為もまた、クラスの人や後輩から僕を遠ざけたり舐められることににさらなる拍車をかけていました。

話が変わりますがこの頃は同時に、父は今まで長年大企業に勤めていましたが、長時間労働や社内でのトラブルがきっかけでうつ病を発症してしまった時期でもありました。

~高校時代~ いじめはほぼなかったが、今度は別の問題が・・

高校時代

この頃は、特に将来の事を何も考えておらず、単に母から就職に有利との勧めという理由で工業系の学校へ入学しました。
推薦だったため、一般入試の試験を受けずに入学したため、周りの人からは「ずるっ!」といわれたのを覚えています。

この頃になると、僕をいじめたり退けたりしたほとんどの人間は別の高校へ進学したため、クラスでのいじめはほぼありませんでした。

僕は安堵し、これ以上不幸はやってこないだろうという軽い気持ちにもなっていました。
しかしこの頃も、またもや悲劇が襲い掛かろうとも知らずに。

それは部活動の入部の時期をきっかけの出来事でした。
この高校では、何かしらの部活動に加入しなければならないという決まりがあり、その時僕は外国人と触れ合ってみたいという思いがあったため、英会話に入るつもりでした。
そう思っていたその時、他の中学校出身の人から「卓球部に入らないか? ねえお願い。」という声をかけられました。
僕に声をかけた一人は、中学校での地区大会で幾度も上位へ入賞し、県大会でも優秀な成績を収めていました。

僕は声をかけられたのと同時に、中学生時代に同じ部活に所属していた同級生からかけられた言葉がふとよみがえってしまいました。

その言葉は、
「もし卓球部に入らなければ殺すからな!」

洗脳されていた後遺症が残っていたため、僕はこの言葉がよみがえったのと同時に震えてしまい、断ることができずに卓球部に入部してしまいました。

僕が入学した高校の卓球部は、県大会出場は当たり前で全国大会へ出場した経験のある選手もいて、それとは裏に部活動の中で一番厳しいことでも知られていました。

厳しい部活に入った僕は、引退するまで厳しさ通りの筋トレや練習量、学校から競技場まで走っての後に練習などといった流れのスケジュールを日々こなすことになります。

もちろん日々過ごしていくなかで、練習相手が口が悪い先輩だと、「この人とは練習にならんわ!」と吐き捨てさせて怒らせたこともあったし、さらには、学校から大会の会場となる体育館まで走り、そこからまた折り返し走ったりして計20kmのランニングをこなしたりすることもありました。
当然陸上部より走っていたため、それを周りに話すと誰からも驚かせられました。

本当は僕みたいなネガティブ思考人間は、こういった部には入ってはいけないですけどね。

時々、OBと呼ばれる元卓球部の人が学校に来ることがあり、特に休みの日に来て、かつコーチが不在の時なんかになると、大声で校歌を歌わされるなんてこともありました。

僕は心の中で「やめたい。やめたい。」と叫んでいましたが、
「部活を辞めるという言葉を先輩も含めてみんなから今後嫌なことをされるのではないか?」
「部活を辞めると人間失格の烙印を押されてしまうのではないか。」
といった恐怖心から辞めることができませんでした。

高校2年になると今度は先輩になりますが、僕より強い後輩はもちろんの事、運悪く中学時代に後輩の中で誰よりも僕を舐めてきた後輩も入部してきました。

もちろん僕は中学時代と同じように後輩からも舐められ、同じく所属していた同級生に助けを求めましたが、「あまえんな!」といった言葉をかけられ、それどころか後輩に少し加担するようになりました。
もちろんこれも、部活動を引退する3年生まで続きました。

一方クラスの方では、様々な検定や資格に挑戦し、種類によっては受かったり落ちたりとありましたが、その中でいくつかを得ることができました。

高校3年生の夏ごろになると、部活動で一番厳しい卓球部からは引退し、今度は就職活動に励みました。

ある時、担任の先生から渡された通信系の会社のパンフレットを渡されただけで、通信系の会社へ就職したいという思いになり、他の求人には見向きもせず、ひたすらその会社から内定をもらうことだけを目指しました。

そのため、SPIといった適性検査などの試験対策を必死で勉強しました。

結果は、
内定をもらうことができず、不採用という結果で終わりました。

その結果を見たとき、思わず僕は大泣きしたと思います。

その後2次募集の求人を一生懸命探しましたが、ろくな求人しかなく見つかりませんでした。

しばらくたった後に電気分野担当の先生から、電気工事関連の会社を勧められました。

試験的には簡単な仕事の説明と、その後に人事部とのキャッチボールという内容で試験問題などはなく、何ともブラック企業がやりそう試験方法だったため、とにかく単純に会社から内定をもらいたいというその思い一つだけに集中し、将来の事は何も考えておらず、当然の結果その会社から内定をもらうことができました。

当然、内定をもらった後に僕は非常に大はしゃぎするほど喜びました。

「もう嫌なことから僕は解放されるんだ!」
そんな甘い考えをしていた僕ですが、次の建設業時代で僕が今まで味わうことがなかった悲劇が襲い掛かります。

~建設業時代~ 戦力になれず、次第に・・・

内装工事

こうして僕は特に将来これになりたいといった夢はなく、担任の先生の言う通りに勧められた会社にそのまま就職することになりました。

この見出しには建設業と書いていますが、電気工事業も建設業の部類に入ると業界では言われている理由から、見出しを建設業時代としています。

高校時代に嫌なことがあっても、通知表は主に「4」を取っていたため、頭がよさそうだし、なにしろ資格や検定をたくさん持ってるしと周りの社員から期待されていたのですが、当然過ごしていくうちに期待を裏切ることになります。

口が悪い年配から軽トラックで乗せてもらっている時には常に体をブルブル震えていましたし、話でやり取りするときにも噛み合わなかったりとすることが多く、さらには仕事を教わってもなかなか覚えることができずに頭を強くたたかれたりなどしたため、次第に年配の人たちから呆れられるようになりました。

そして外の仕事で当然戦力になっていなかった僕は、補佐として手伝う時に年配たちの怒りが爆発します。

年配の人達から指定した物と間違って持ってきたときに、上で作業していたある一人の年配の人がイラついてきたせいか、いきなり、
「この豚野郎!」
と僕に向かって罵声を浴びせました。

それ以降年配の人と仕事をするごとに、
「うるせえんだよ! 給料だけもらうだけの給料泥棒が!」
「トロトロしてんじゃねぇよ! 後でお前の首を片っ端から骨ごとくだいてやるからなあ! 覚えとけよ!」
とまで言われ、しまいには、
「お前まだいたのか! さっさと俺らの前からきえっちまえばいいのに!」
とまで言われるようになりました。

仕事のほとんどは力任せの仕事が多く、また幾度もの暴言を言われたため、僕の精神的肉体的苦痛はピークを迎えます。

そして、本格的な悲劇は合宿の時に起こります。

ある一人の酒に酔った年配から僕に対して、「お前! 俺の顔を殴れ!」といきなり声をかけられたのです。
僕はその言葉をかけられた際には戸惑いを見せ、殴れば法に引っかかることはわかっていたので、パンチを寸止めする行為しかしませんでした。

そうしたら殴らないことにブチ切れたせいか、いきなり、
「ふざけんなこの野郎! てめぇなんか殺してやる!」
と、そんな言葉を僕に吹きかけ、そして、

殴られる男性

「どんっ!」

何事かあろうか僕の顔面をいきなり殴りつけてきました。

僕を殴った音は、部屋全体に響き渡りました。

殴られた結果、眼鏡にもひびが入り、畳が血だらけになるほど鼻から血が噴き出てしまい、全治2週間のケガを負う羽目になります。

ケガを負わされた後に何もかも嫌な気持ちになり、僕を殴った年配が寝始めた頃を見計らって宿のトイレへ行き、こっそり両親へ電話をして僕の止まっている合宿の方へ迎えこさせました。

そして、深夜の時間帯で両親が車で合宿所まで迎え来てくれて、僕は逃げるようにして合宿所から出て車へ駆け込み、両親とともに家に帰りました。

その後は、警察からの取り調べがあったのですが、僕を殴った本人は酒に酔っており、「ふざけただけだ!」と笑いながら軽い言葉を発していました。

その会社に在籍している社員の中にはある人を嫌がらせして、そのあげくにその人を自殺にまで追い込んだ社員も在籍しているというとんでもない会社だったので、本当の意味でやめてよかったです。

そして何もかも嫌になってしまい・・・

その後はしばらくニートになり、殴られた影響によるショックがあまりにも大きかったためか、数時間ごとに過去の嫌な出来事を思い出してはめそめそと涙を流すことがよくありました。

それと同時に次第に日にちが経つにつれ、生きるということがだんだんつらくなってきました。

生きるのに疲れを感じた僕は、1階の物置から白い紐を見つけて適度の長さに切っては2階に持っていき、輪っかを作ってはそれを吊るすところがないかを探しました。

吊らせるところ見つけ、次にメモ用紙に遺言を残したあと、最後に僕の首をその輪っかにくくりつけて下に体重を乗せました。

そう、僕は首つり自殺を計ろうとしました。
しかし、結果は失敗に終わりました。

吊らす部分が悪かったため、吊らす部分の根元が僕の体重に耐え切れずに折れて、僕の頭上に落ちました。

この頃具体的にどんな遺書を残そうとしたのかはわかりませんが、
「お母さんお父さん、僕はもう精神的にも肉体的にも疲れてしまって生きるのにも疲れました。もう僕を止めないでください。今までありがとう。そしてさようなら・・・」
というような遺書を残したのだと思います。

その次の日、母から僕にある一冊の本が手渡されます。
その本の名前を惜しくも忘れてしまいましたが、その本を手に取った時僕は、「人生の生き方について考えた本があるんだ。」と初めて知りました。

その本を読み終えた後、僕は自分の人生をもう一度やり直したいと思うようになります。

追記:この頃の母は、いろいろとつらいことがあったから、僕が大人になった後に自分は楽をするという考えだったかもしれません。

~短大時代~ 自分の人生をやり直すため大学へ

大学の教室

もう一度人生をやり直したいと思った僕は、アルバイトを始めました。

それと同時にテレビや動画で、ロボットが操作する映像を思い出し、高校時代に少しプログラミングについての分野に触れたので、プログラミングを使った情報系の分野なら僕は活躍できるのではないかと考えたので、情報系の科目がある短大を目指すことにしました。

どうしても家にお金を入れなければいけなかったことや、短大での学費をためなければいけなかった為、アルバイトのシフトを多く入れました。

その結果、入試試験での結果は悪かったが、幸い定員割れだったために合格することができました。

僕の場合は、高校と大学の間で1年間の空きがあったので、クラスでは僕以外は全員1歳年下の人たちで、その人たちと一緒に今後の短大での生活が始まりました。

しかし、またもや僕はここでも失敗することになります。

最初はテストの成績や実習でのレポートの提出はしっかりこなしていましたが、入学してから一か月後は、週に4回以上バイトのシフトを入れたことや、遊びを優先してしまってたるんでしまったことが原因で徐々にテストの成績が悪くなったり、レポートの提出期限を過ぎてしまうことがあったりとしました。

そのため僕が年上にもかかわらず、年下の人たちに頼ってしまうことが多く、しまいにはレポートをほぼ丸パクリしてしまうこともありました。

そして、専門分野の先生方から怒られることもしばしば発生するようになり、まれにですが強制的に残らされてバイト先の方に迷惑をかけてしまうこともありました。

ここで話が変わりますが、高校生になってから両親からおこづかいを全然もらえなかったことで欲しいものがほとんど買えず、それが原因での欲求不満があったせいかクラスの人に負けじとカードゲームを買ったりなどしてお金の使い方が荒かったことが多く、しまいには自分の心の中で「貧しい」と叫んでいたこともありました。

こうした生活は、卒業研究の時期まで続きました。

卒業研究の時期になると、先生方は僕たちに課題を与えます。

卒業研究では、実際に世の中で使われそうなシステムを想定したシステムを制作するというのが課題で、そのために二人で一組のチームを組む必要があったので、僕はクラスの中で2番目に頭のいい人と組むことになりました。

卒業研究をこなしていく上で、頭のいい人に頼ることが多く迷惑をかけてしまったことがあったが、一つずつ壁を乗り越えていきました。

そして最後の卒業研究発表会では、僕のチームで作成したシステムに少し不具合があったものの、なんとかうまくいきました。

しかし、夜遅くまで居残ったことや、多くのアルバイトのシフトを入れてしまったりなどの影響が仇になってしまったせいか、情報系企業を目指すものの失敗してしまい、高校時代と同じように担任の先生に勧められた金属系の会社へ就職することになります。

~製造業時代~ 不幸を経験した僕でも戦力へ

工場の外観

詳細には、電子機械の部品を製造する金属会社に入社しました。

最初に部長といった役員たちの勉強会や説明を終えた後、それぞれの先輩の元で指導を行うことになりました。

僕はこの会社へ入社前の面接で、前職を経験したことや、「過去に厳しいことを色々言われました。」的なことを面接官をやっていた役員たちに言ったために向う側からは、忍耐力は他の人よりはあるという風に認識されたため、当然部署で一番厳しいとされる先輩の元で指導されることになりました。

僕は、金属のかたまりから図面通りに加工するマシニングとよばれる機械を操作する担当になりました。

最初に、先輩社員がお手本として実際に機械を使って仕事をしている様子を2週間ぐらいの期間で見た後、それから僕がその先輩社員が請け負っている機械を操作しました。

当然、機械についているドリルなどをへし折ったりするなどの失敗も多くしてしまったため、先輩社員からは僕に向かって大きな怒声を浴びせたたため、僕はたちまち泣きそうになったこともありました。

この頃になると前職の失敗経験をしたためか、ネガティブ気味にめそめそと泣くことはありませんでした。

そのような厳しい指導は半年ぐらい続き、その結果僕に厳しかった先輩社員は僕に対して仕事を任せるようになりました。

その後、僕は会社の戦力になることができ、不良を出してはほかの社員から怒られることもあったが、難しい加工に自分から挑戦して加工することができたりといった成果を出したりして、徐々に周りの社員も僕を認めるようになりました。

そして、ある日を境に部署命令によって僕は別の部署で夜勤として別の仕事を行うようになります。

追記ですが、この頃にはだんだんとメモの重要性に気づきはじめ、メモをとるクセをつけるようになりました。

~気楽だった夜勤~ この頃に何もかも見えるようになる。

夜勤のイメージ

別の部署で夜勤になった僕は、主に日勤の人たちの引継ぎで機械をひたすら回すいわばルーチンワークの仕事でした。

僕のいた前の部署とは違う部品を作っていて、その部署の上司は僕からの視点で意味が分からないような上司に見えました。

その後しばらく仕事をしていると僕の予想が的中し、その部署の社員が上司に向かって効率のいい方法を提案したのにすぐに却下したり、失敗した社員に向かっていきなり怒声を浴びせたりすることなどの光景を見かけるようになりました。

そして、徐々にルーチンワークしかしない僕を妬み始めたせいか、徐々に僕に対して当たるようになりました。

話が変わりますが、この頃には著名人の本や哲学に徐々に興味を持ち始めた時期でもありました。

夜勤では、日によっては全ての機械が回った後に次の機械の加工終了まで1時間半くらいあったりなどの空き時間がありました。

夜勤専門の上司もいましたが、その上司は僕に対しては、
「空いた時間は掃除をしたり、あとやることなくなったらなんかしてれ!」
と優しい感じでした。

その空き時間も利用しては、ネットで有益になりそうな情報を見つけては、僕の頭の中に取り込んでいきました。

また、成功している人や活躍している人は1日1食といった超少食を実践している人がほとんどということ、
水によってもたらされる効果があまりにも多いということ、
そして世界は広く素晴らしいものだということ、
それらもこの頃には取り入れたり習慣づけたりもしました。

その結果、何もかもパフォーマンスが良くなってきたり、全体的にポジティブ気味に考えるようにもなってきました。

それはまるで、なにもかも生まれかわったかのように僕の中では感じました。

しかし、ある日を境に夜勤の終わりは、優秀な社員の退職とともに突如として終わりを迎えることになります。

追記ですが、この頃にウクライナ前大統領のホセ・ムヒカ、未来工業創設者の山田昭男といった人物のことも知りました。

また、家庭では父と姉双方で「出ていく!」という言葉を発した日が何度もあり、一度その言葉を聞いた母が突然意識が固まってしまい、救急車に運ばれて病院へ搬送されてしまう事態まで発展してしまったことがありました。

~再び日勤へ~ 上司の当たりに耐え切れず退職へ

物流倉庫

夜勤から日勤になる頃、僕が務めていた会社はあやしいムーブに包まれておりました。

別の部署では退職する人が相次ぎ、僕が夜勤の頃の別の部署では夜中の午前3時まで仕事をした日があったということもあり、まさに電通のような勤務時間になったりもしていました。

もちろん長時間労働に危機感を覚えたのか、僕が前にいた部署で僕に機械の操作を教えてくれた先輩社員も退職してしまいました。

退職した社員の中には、「このクソ会社! こんな会社辞めてやる!」と吐き捨てた社員もいました。

僕が夜勤から日勤になった後、僕の部署の先輩社員から無理矢理といっていいほどの膨大な仕事量を教え込まれました。

当然仕事を覚えていく最中、そのころは未熟だったために失敗して不良を出してしまうことも多かった為、当たってくる上司は怒鳴るのは先輩社員ではなく、ほとんど僕に怒鳴ってきました。

僕は精神的にもまいそうになりながらも何とか仕事を覚え、再び戦力になることができました。

しかし戦力になっていったにもかかわらず、夜勤の時からの妬みが続いたせいか、上司の僕への当たりはおさまるどころかさらにエスカレートしていきました。

僕が今日の仕事を終わらせて帰ろうとすると、
「なんで帰ろうとするんだよ! 時間あるんだからこれもやれや!」と言われたり、
僕が後ろで何かしようとすると、
「お前何か隠してるだろ! だからかくすなちゃ!」
と、隠すつもりもないにもかかわらずいかにも犯人扱いされたりなどといったパワハラ的な当たりが日常茶飯事になりました。

また、仕事を予定の納期よりも早く終わらせたにもかからず、
「お前、余裕あるみたいだから土曜日に前倒しでこれをやれ!」
といわれることも多く、いかにも土曜日に休むことも許されないような感じでした。

そのためもちろん、旅行といった遠出の計画も組むこともできないような状況でした。

このような感じになってから僕は幾度も会社を休むようになり、会社での感謝もあったのですが、
「このままだと何もかも僕の好きな事やりたいことができずに自由が束縛されて、社畜化されていくだろうな。」
と心の中で危機感を感じるようになり、退職を決意します。

当然会社の戦力になっていたので、他の上司や部長といった偉い人達に相当引き留められます。

「この会社無理だったら他に行っても無理だよ。」というなんともブラック企業がいうセリフをかけられたこともありました。

そのような感じでいろいろといわれましたが、僕の退職への決意は変わらず、退職への各種手続きをすませて無事に退職することができました。

~今現在~ 幸福に生きていけることを目指して

海の向こうの朝日

こんな感じで正社員からフリーターになってしまいましたが、何しろ僕は希望を失ったわけではありません。

どうしても家にお金を入れたり、自己投資のための資金を稼がなければならい為に短大の時と同じようにまたアルバイトをしていますが、バイト先の距離を短くしたりして時間を多く確保できる環境を整えています。

周りが見えたことや超少食、水の習慣付けをしたことによって現在でも良好なパフォーマンスを維持しながら発揮し、もはやアルバイトを「遊び」というような感覚でこなしています。

その後帰ってきた後は少し遊んですぐに寝た後、著名人といった本を読んで自己投資したり、ブログ書いたりなどが僕の現在の日常生活です。

将来性を見つけ次第では、会社を探して内定をもらい次第またサラリーマンとして戻ることもあるし、場合によってはビジネスを始めたりなどの2パターンが現在僕の頭の中では考えられていますが、正確には将来どうなるかはわかりません。

もしかしたら将来はビジネスをして、起業という道になるかもしれません。
まあ、今後の人生はどうなるかはわかりませんですけどね(笑)

これとは話がかわりますがただ一つ、僕にも不安があります。

家庭問題は父の方はだいぶ収まりましたが、姉のほうは今現在でも問題があります。

ここで今頃書きますが、過去のトラウマが引き金となって姉はADHDという発達障害を患っており、日によっては居間で暴れたり物にぶつかったりとしているのが現在の現状です。

毎日ではありませんが、良いときで月に1回も起こらない月もあれば、ひどいときで月に何回か起こってしまう月もあります。

そのため両親は、常に姉の機嫌を気遣いながら暮らしているのが現状です。

僕自身も今後の人生を生きる上でどうなっていくかはわかりませんので、同時に自分の身を守るように色々と対策も立てています。

突然背後から刺されて殺されたり、家庭が突然崩壊してしまったりといった事態もあり得るためだからです。

そしてある使命を持ちながら、今後の人生を生きていくつもりでもあります。
「僕は今現在にいたるまで他人や友人から助けられてここまで生きることができ、また自分自身を変えることができた。 そして今度は、僕が他人や友人を助ける番だ!」
という使命とともに。

最後に補足(主に今までの思い出)

思い出写真

不幸の経験を中心に書きましたが、なにしろ悲しい出来事ばかりではなく、良い思い出ももちろんありました。

小学生から中学生時代ではポケモンに熱中していた時期で、そのころクラス内でもポケモンはブームになっていたので、僕自身もそのブームに乗ったおかげで友人も作ることが出来ました。
ほぼ毎日学校から帰ってきては勉強よりポケモンに熱中していたために両親から怒られたり、しまいにはゲームを取り上げられたりしてわめいたりすることもありました。

高校時代から建設業時代にはマリオカートwiiにどっぷりはまっていた時期で、レースよりもバトルを中心に遊んでいました。

この頃はtwitterといったSNSがまだ普及していなかったころなので、専用掲示板でそれぞれスレッドを立ててやり取りをしていました。

プレイヤーネームを「LUKE・FABLE」という名前で名乗っていて、レートと呼ばれる実力を示す数値をカンストを達成したりするほどその時はガチ勢でした。

下の動画はそのころ僕がプレイした動画です。

またこの頃は生配信環境はまったくなかったため、カメラで直接録画で取ってその後にyoutubeへアップロードしていました。

そして僕がマリオカートwiiを引退すると同時に、その引退を惜しんだ大会を主催しました。

下の動画は、引退を惜しんだ大会を録画するのを忘れてしまったため、僕の大会に参加した元フレンドの動画です。
内容としては、制限時間内に僕をゴールさせないようアイテムを使って妨害するというルールで、ストレス発散効果があったのか評判はかなり良かったです(笑)

ちなみにこの動画内で「メガトロン」と名乗っているのは僕ですw

この頃にマリオカートwiiをプレイして、他人を面白く喜ばせたりすることの重要性に気づけて良かったと思います。

短大時代には「幻想神域」というMMORPGにはまってた時代でプレイヤーネームを「nena」という白髪の女キャラクターを制作して遊んでいて、エンジョイ勢として楽しんでいたものの、常に他より強くなりたいという思いが根強かったため、僕よりだいぶ前に始めたギルドマスターよりも強くなりすぎてしまったということがありました。

ギルドマスターの他、同じギルドに所属していた人からはガチ勢として見られていたし、一時期利益を求めすぎたために「あっそ! 勝手にしていれば!」と喧嘩してしまったものの、そういわれてから僕自身猛烈に反省しその3時間後にすぐに仲直りすることができたのも僕にとってはいい経験にもなりました。

それと同時に、カードファイトヴァンガードという名前のリアルカードゲームもクラスで流行っていたために始め、主に悪役がアニメで使っているのようなクラスを中心に遊んでいました。
ここでも他人よりも強くなりたいという欲求が強すぎたせいか、金使いが荒かったその矛先は主にこのカードゲームにありました。
金使いが荒く、それで貧しいと叫んでたその時の僕は、誰もが思うよう完全に僕がアホでしたけどね(笑)

製造業時代の2015年冬にはスプラトゥーンを始めたり、2016年の10月ごろにはスマホゲームのシャドウバースを始めたりして現在までいたります。

この頃の間には、スプラトゥーンtwitterを使っては見知らぬ人とリーグマッチをし、時にはある有名なコスプレイヤーさんと一緒にした頃でもありました。

次第には、ゲームを通して見知らぬところに飛び込む形でオフ会に行ったりとこの頃ありました。

長々となりましたが今までの経歴はこのようになります。
ここまで読んでいただきありがとうございますm(__)m